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2014年10月24日金曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.268

作文と読解の力を発展させ
これからの 【よみかき】 にて
文を読み書きすると同等の


さらに写真表現よりも
もっと身近なレベルで
必須になるだろう


動画表現の能力について
お伝えしていきたい
と思います。


動画は、動きのある映像
そして静止画、文字、音

さらに時間など具象から
抽象、概念まで駆使して
表現を、構築していきます。

動画表現にまつわる
さまざまな考え方が
あるなかで

その根本には、人の声と言葉が
深くしっかりと関わっているという
<問題意識>を通奏低音に

【動画のよみかき】 を主題とし

できるかぎり体系的な
「動画のいろは」 となるよう
お伝えできればと思います。

ここでいう動画は
映画やテレビなどの
大掛かりな作品ではなく

個人が表現の道具として
えんぴつとノートで残していく
ような 【動画】 になります。

“世界”の全体を見渡す習慣と
事象の細部に宿る“神”を感じ
動画で表現する楽しさが

共有できれば幸甚です。

今回は、前段として
【動画のよみかき】 事始めを
さわりだけお伝えいたします。

【動画】 は記録ありき!
Au commencement de toutes
choses,la Parole existait
deja. はじめに言葉ありき

ジョアンによる福音書の
冒頭ではないですが

なによりもまず
動画は、記録ありきです。

ブレていようが
暗くてなにが映っているか
わからないデータが
残っていようが

記録があれば98%は
動画表現が完了したも同然。

ここで大事なのは、キレイな
映像ではなく自分の視線です。

言葉をかえますと 【動画】 は
はじめに視線ありきとなります。

“視線=記録”これが
【動画のよみかき】 の
事始めになります。

次回は、この視線と記録について
ゆっくりと探っていきたいと思います


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まずは、教室までメールをお送りください

gakudou@kankendo.com


2014年10月2日木曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.267

作文と読解の力を身につける。
この命題を念頭において
本の紹介動画を制作。


配信も10月に入り
95本目になりました。


感慨にふける間もなく
蔵書をかき分けながら


かつて自分が施した
頁への書き込みを読み

紹介する日々を
初夏よりはじめ

この3か月ほど
飽きずに送っています。


ここは大上段にかまえて
結論めいたことをひと言
お伝えできればと考えています。

書籍は、そのものにして
劇場もしくはその舞台を踏む役者。

文は、役者の科白を運ぶ肉声。
文字は、観客の頭に残る余韻。

このような“結論”です。

尊敬してやまない小説家
大岡昇平の 『現代小説作法』 より
第11章 ハムレット から

ハムレットは死に、
輝く健康な王子
フォーチンブラスの形で
復活するのを見て、

われわれは哀憐と浄化を経験し、

結局われわれの
おかれた環境を認知し、

その中で人間のたどるべき
運命を理解するのです。

認知と理解という
相から眺めれば

まだまだ、紙の書籍がもつ
役割は終わっていません。

表舞台で、主役は
はれなくなるかもしれません。

ですが
裏道の小劇場に立つ役者として
贔屓筋のお客さんが
しっかりとその役者を
支えていくと考えています。

むしろ、そうすべきとも。

と、なると劇場支配人の
思考と振舞いそして心粋が
すべてを形づくる原点となると
そう、考えられます。

紙の書籍に、電子書籍
動画、音声データと
それぞれの役者がもつよさを
どうプロデュースしていくか?

この場合、問われるべきは
紙の書籍がもつ将来ではなく

劇場の支配人であるといえる
出版社がもつ存在意義です。

紙の書籍という役者にのみ
衰退の原因をあてがわず

劇場の要素すべてを使って
紙の書籍にもスポットライトをあてる。

18・19世紀の出版人のように
個人ですべてを差配して
個人で出版のリスクを負い
個人がその余剰価値を享受する。

そこに戻っていくように
感じています。

そのとき作家はどうなるか?

18・19世紀のようになるならば
原稿料は限りなくゼロに近づく
と、思われます。

それがとても不都合ならば
作家が出版人を兼ねる
もしくは出版人が作家になる

そんなような状況へと
変わっていくように思います。

翻って、読解力について

いち出版人がリスクを負った
出版物が世の中にたくさん
出てくるようになったとき

そのとき、読み手の読解力が
真の意味で発揮されると
そう考えています


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2014年9月25日木曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.266

作文と読解力と巷間
喧しくいわれるように
なっているのにもかかわらず


いっこうに作文力と
読解力が身についているとは
到底思えなく、自身を
振り返るためにも


ここ1週間で蔵書を
できるだけ手に取り再度
目を通していました。


世の中に出版される新刊書の
内容が難しくなっているのか?

それとも自身に読解力が
そもそもなかったのか?

あってもわずかだったのか?

そのわずかな読解力も
すでに衰えているのか?

いろいろと些細なところから
仮説をたてて、これまた小さな
検証を進めたところ

他人のせいにするようで
気が引ける検証結果が
手のひらに残りました。

編集者とデスク、そして販売部。
つまり出版社が劣化している?
それも、激しく衰えているのでは?

という結論です。

衰えの顕著なところは
ズバリ! タイトルです。

現在、無数に発刊される
新刊書のすべてに目を通している
わけではないので

一概に言いきれないのですが

書籍のタイトルと内容が
ピッタリきている新刊書が

かつてよりも少ないと
そう感じられるのです。

とくに、新書。

このジャンルがたどっている
質の劣化は、目に余るものがある
と断定しても過言ではありません。

1.内容に沿った素直なタイトル
2.内容がいいのに大げさなタイトル
3.内容がなくひとり歩きしているタイトル
4.檄文を許したうえに過激なタイトル
5.もはや帯の惹句のようなタイトル

1に近いほどひっそりと販売され
5に近づくほど新聞広告にはじまり
各書評へねじ込まんばかりに
表出されています。

「お相手によって態度を一変する」
とてもお聞き上手なテレビ営業の
女性作家さんによる新書が

いい意味でも、悪い意味でも
マイルストーン(画期的作品)
だったように、思われます。

昆虫好きのおじさんによる
新書は、あくまでも余技の域。
新書販売のタッチストーン
(試金石)だったと思われます。

まわりくどくなってしまいましたが
自身の読解力を云々するのならば

まずは、「1」の新書その新刊書を
手に入れてからだということです。

それが現在、とても難しい。

読解力を身につけることよりも
その力をつけるための書籍に
巡りあうことのほうが
なにより難しい。

さらに、“熱帯雨林”の名を冠した
ネット販売に随時、掲載されている
感想文が「5」よりもあてにならない。

書籍に対し賛否どちらにしても
内容との距離が「熱すぎる」か
「冷たすぎ」て数多ある感想文から
思考がほとんどできないのです。

最後の“熱帯雨林”はつけたりですが
現在、読解力は冷静な書籍探しから
はじまるともいえる状況です。

当然ですよ! 遅くなくて?
と、すでに実践している方も
いらっしゃると思います。

そんな堅実な本好きの方々も

コップのなかの
ゆでガエルを肝に銘じ
かなりしっかりとした
意思を持続しないと

「1」の新刊書が自分から
遠ざかるばかりの厳しい環境。
それだけ危機的な状況といえます。

本との素敵な偶然の出会いは
しっかりとした書籍との
つながりがあってこそです。

書籍との出会いを
千三つにしてはならないと

自身の読解力を探りつつ
微力ながらもせっせと
本の動画を配信しています


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2014年9月17日水曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.265

作文と読解力について
動画の制作から考えてみます。


と突然、動画の話をするのは


【本に書き込む勇気】と題して
毎日、主に文庫や新書を1冊ほど
取り上げて本の紹介動画を制作。


youtubeにて、配信しているなかで
ひとがもつ読解力の何たるかについて
深く考えさせられたからです。


動画でご紹介している書籍は
自身が購入し、そのページへ
書き込みをした本(一部雑誌)に
限定しています。

今朝で、80冊目。

当初は本の内容と、頁への書き込みを
なんとか伝えようと腐心しておりました。

いまから考えるとなんて
さしでがましい! とさえ
感じられ、配信開始のころの
動画を見ると、その意気込みに
むしろ微笑ましくなってきます。

この「意気込み」がカラダから抜け
厚かましさが薄まってきたのは

自身が制作している動画が
「本に出会う」ときの思考の流れ
そのままをなぞっていると気づき

より丁寧に紹介の要素を
組み立てるようになってから
といえます。

ちょうど70冊を超えたあたりです。

そんなころ、紙の書籍と
WEBの情報伝達との
関わりについて話題に
なったときです。

ある方がふと

大学院生のころ教授から
図書館のなかを歩きなさい
といわれていました

と語りました。

その言葉をうけたとき

制作している動画につながり
「読解力」の見えてなかった
一面に思いにいたったのです。

そうか! 読解力はなにも

文章に接してから
行使されるだけではなく

文章に出会う、かなり前から
その力は行使されているんだ!

自身の行動を考えてみると
たしかに、新刊書店へ図書館へ
足を運ぶ前からすでにして

まだ見ぬ文章のことを
あれこれと考えている。

書評でチラと目にした
文章のこともあれば

こんな書籍はないかなあと
想像している文章のこともある。

そんなとき、思いもよらない
本や文に出会い、それがかなり
歯ごたえのある内容であっても

手に取り目にした瞬間
棚に戻したくなるほど
理解できないわけじゃない。

となると、文章に出会うまえに
その文章を理解するための
「読解力」がどこかで確実に
働いているに違いない。

そう、思いいたったのです。

言葉にしてみると
当たり前といえば当たり前の
ひとがもつ思考の流れです。

ですが、いま制作しつづけている
本の動画がこの「前期読解力」とも
名づけてみたくなる力に訴えかけている

と考えると、いろいろな現象に
あらためて合点くるところがあるのです。

この「前期読解力」を
【本に書き込む勇気】動画にて
丁寧に掘り起こしていきたいと
そう、考えています


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2014年9月13日土曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.264

作文と読解の力を
身につけるのではなく
行使することにこそ
神経を集中する。


ここ数日ほど文章を
書くことを考えず
ひたすら考えることを
考える自分を感じる


という内燃機関の
振舞いのような動きで
新聞を読んできた
ひとつの結論になります。


現在、巷間賑わせている
新聞社の顛末を冷静に
考えてみますと

そもそもが読み手側が
読解力を身につけなければ
新聞の記事に書かれている
内容を掴み咀嚼することができない

と、決してそうは思ってなくとも
どこかでなんとなく了解していた
ところから来たものではないかと
そう感じられてしかたありません。

ご丁寧に頼んでもないのに
個人の情報を世間さまに
ご提供する教育事業会社と

厚かましくも語彙力検定などと
はじめたころから紙面が顕著に
変化していたことを

読み手として真摯に
受けとめていれば

もっと早くに新聞が伝える
書かれた言葉と健全な距離が
とれていたのではないかと
悔やまれてなりません。

新聞なんてまったく読まない。
なくても別に生活には支障ないし
そんなものに月5000円なんて
高価過ぎる。ネットでタダで
読めるじゃん。新聞って間違ってるし

どこまでも正しいこの思いが

どこまでも辛い
個人で権力と対峙する
環境の固定化を招いてしまう。

それを恐れて、とっていた新聞が
新聞の言葉を精査する時間に追われ
目を通す気さえ失せてきてしまう。

新聞がなにかの“権力”であり
それを感じていたからこそ

知っていながら新聞がもつ
“権力”に対して対価を
払ってきたところが多分にあります。

新聞の威力は、紙に刷られた
大小無数の文字にあります。

ラーメン店の卓上に
ステープラーで閉じられ
油染みた紙面があれば
手に取られる確率がとても高い。

器に盛られた湯気のぼる麺と
同一平面上に文字が並ぶところにこそ
新聞の「真の力」があるはずです。

その場で新聞から読解力をつけよう
なんて思うことは寸毫も起こりえません。

ただ、ん? と感じたことには
持てる読解の力を麺が伸びない程度に
働かすことはあるはずです。

しかし、それは新聞が伝える
個々の事例(事象)であることが望ましく

新聞自体の言葉がもつ真偽性に
呆れ返ることではないように思われます。

新聞が自覚的にも無自覚にも
自らの力を手放していくのは
読み手にとっても損失で
あるように、そう感じられます。

ここでポール・ヴァレリーをひくのは
衒学的にすぎるかもしれません。

ただ、自身の記憶に残すためにも
『我らが至高善 「精神」の政策』の
一文を、書き留めておきたいと思います。

話されたものであれ、
書かれたものであれ、
言葉に対する信頼感は、

足元がしっかりして
いなければならないと
考える人間には不可欠である。

たしかに我々は時に言葉を
疑うことはあるだろう。

しかしその疑いは
個々の事例に限定されて
いなければならない。

強制的な視聴料で成り立ち
全国放映が約束されたなかで
多彩なスキャンダル歴がある
テレビ局の報道ご出身の
「何でも書き屋」さんに

活字の流通が翻弄されている
場合ではないように思います。

頼まれてもいない
妙な決意ではありますが
しっかりと持てる読解の力を
行使していきたいと考えています


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2014年9月9日火曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.263

作文を書くにも書籍を読むにも
文字と接することになります。


最近、その文字についての
物質性を考えることが
多くなりました。


書籍を紹介する動画を制作。
youtubeにて配信するようになり
本日で72冊目となっています。


私が書き込みを入れた
書籍の見開きを一部撮影して
1本の動画に編集する。

この繰り返しのなかで
はじめは書籍が物質であることを
否が応でも感じていたのですが

あるとき、書籍ではなくて
紙面に並んでいる行さらに
ひと文字、一文字自体を
立派な物質として

意識している自分に
気づいたのです。

明朝体のタイポとか
字送り、行送りといった
意匠的な物質ではなく

石や木や肌などと、同じ部類の物質。
文字がそんなものに感じられたのです。

人はそれを「フェチ」
というかもしれませんが

どうもそのように
執拗な偏愛はなく

ただたんに、それなりに
持ち重りのするものを

動画のなかに、つまり
データのなかにせっせと
自分の手で送り込んでいる

そんな感覚です。

個人がもつ妙な感覚のうえに
さらに話は飛躍してしまいますが

ひとが感じるこの物質性を
データのなかに送り込み

データの表現形式をとおして
(今回の場合はyoutube動画)
ひとと共有することの先に

紙の書籍と新しい形態の書籍が
共存する世界が広がるのだろう
とうい予感がしています。

取次システムに胡座をかいた
ミリオンセラー狙いの
書籍づくりと販売により

紙の書籍をつくりだす
人の文化は自滅するかも
しれませんが

紙の書籍自体の存在意義は
滅することはないと思います。

スキンヘッドのゼロ戦男による
単行本ばかり並んでいれば

紙の書籍がもつ存在意義に
気づかなくなるのも
しかたのないことです。

その方向で考えますと
電子書籍が紙の書籍を圧迫する
こともないと思われます。

どこかいつまでたっても
はじめの一歩的な様相を拭えない
現状の電子書籍の形式こそ
消えてなくなる可能性が高い。

そう思われてしかたありません。

現状の電子書籍がもつ
データの永続性には
かなりシビアな視線を
おくったほうが無難です。

自身の考えは、けっして
紙の書籍礼賛ではありません。

ただ紙の書籍に接する
人の感覚を深く考えると

紙の書籍とまだ見ぬ
何らかの書籍が共存する
そんな世界が見えてくる

ような気がしています


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2014年9月6日土曜日

国語の学童 国語の健康診断vol.262

作文や読解の力を
身につけるために
新聞を活用する


その環境をここで
一度、冷静に考えて
みたいと思います。


結論からいいますと


新聞の記事そして文章を
エンターテイメントとして
ただ単純に、楽しむことができる。


新聞がつくりだすこの環境こそが


新聞を活用しながら

作文や読解の力をつけることへ
繋がると、考えます。


新聞紙面で人を楽しませる
文章を書きたいと考えている人。

そのような書き手を
新聞がつかまえているか?

そんな書き手が人を楽しませるために
寄越した文章に、新聞がしっかりと
紙面や紙幅を割いているか?

そのどちらもがいくらか
担保されているなかで

さらに、そんな文章に
日毎、短い時間で
出会うことができる

という課題がクリアされて
やっと作文と読解の力が
つけられる環境が整うと
考えるわけです。

記事を書いている本人が
どう考えているかはわかりませんが

巷間喧しい「お詫び文」は
かような条件に照らし合わせると
第一級のエンターテイメントであり

さらに、嫌でもすぐに
出会うことができるという
類まれなる条件クリア力によって

作文と読解の力をつけるために
活用できる素晴らしい
教材となっています。

新聞記事がそもそも
エンターテイメントである
ことを小気味よく伝える文を
ご紹介します。

マーク・トウェインは、
文章の軽業師、生まれつきの
<エンターテナー>で、

文学から文学を編み出す
前衛的な作家に似てなくはない
方法をもちいた。

たとえなんであろうと、
もとになるテクストを
手にしさえすれば、

彼はそれをいじくって、
たちまち短編をものにする。

だが、[彼の場合]その原典は、
文学にまったく関係のない
ものでなければならない。

たとえば、シャーマンの
司令官に納入した牛肉の缶詰
についての関係省庁への報告、

ネヴァダの上院議員から
有権者にあてた書簡、

テネシーの地方新聞に
掲載された論争、

農業新聞のコラム、

落雷防止法のドイツ語の手引書、
はては納税用の申告書、
といったふうに。

マーク・トウェイン
『ハドリバーグを墜落させた男』

『なぜ古典を読むのか』
イタロ・カルヴィーノ著
須賀敦子 訳 河出文庫

そのマーク・トウェインは
ある書簡でこう述べていた
といいます。

-ひたすら、大衆という
大きな獲物を追うことに
かまけていた。

それも彼らを
教育するなどという
心がけからではなくて、

彼らを愉しませるために、
できるだけのことをしたいと
考えてきた-

新聞を、作文と読解の力を
身につけるために活用するならば

マーク・トウェインのような
書き手がもつこの誠実さに
接することができる環境があって

はじめて、その活用が
かなうはずです。

長くはなりましたが
そこを冷静に見つめて
いきたいと考えています

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