作文と読解の力を
身につけるのではなく
行使することにこそ
神経を集中する。
ここ数日ほど文章を
書くことを考えず
ひたすら考えることを
考える自分を感じる
という内燃機関の
振舞いのような動きで
新聞を読んできた
ひとつの結論になります。
現在、巷間賑わせている
新聞社の顛末を冷静に
考えてみますと
そもそもが読み手側が
読解力を身につけなければ
新聞の記事に書かれている
内容を掴み咀嚼することができない
と、決してそうは思ってなくとも
どこかでなんとなく了解していた
ところから来たものではないかと
そう感じられてしかたありません。
ご丁寧に頼んでもないのに
個人の情報を世間さまに
ご提供する教育事業会社と
厚かましくも語彙力検定などと
はじめたころから紙面が顕著に
変化していたことを
読み手として真摯に
受けとめていれば
もっと早くに新聞が伝える
書かれた言葉と健全な距離が
とれていたのではないかと
悔やまれてなりません。
新聞なんてまったく読まない。
なくても別に生活には支障ないし
そんなものに月5000円なんて
高価過ぎる。ネットでタダで
読めるじゃん。新聞って間違ってるし
どこまでも正しいこの思いが
どこまでも辛い
個人で権力と対峙する
環境の固定化を招いてしまう。
それを恐れて、とっていた新聞が
新聞の言葉を精査する時間に追われ
目を通す気さえ失せてきてしまう。
新聞がなにかの“権力”であり
それを感じていたからこそ
知っていながら新聞がもつ
“権力”に対して対価を
払ってきたところが多分にあります。
新聞の威力は、紙に刷られた
大小無数の文字にあります。
ラーメン店の卓上に
ステープラーで閉じられ
油染みた紙面があれば
手に取られる確率がとても高い。
器に盛られた湯気のぼる麺と
同一平面上に文字が並ぶところにこそ
新聞の「真の力」があるはずです。
その場で新聞から読解力をつけよう
なんて思うことは寸毫も起こりえません。
ただ、ん? と感じたことには
持てる読解の力を麺が伸びない程度に
働かすことはあるはずです。
しかし、それは新聞が伝える
個々の事例(事象)であることが望ましく
新聞自体の言葉がもつ真偽性に
呆れ返ることではないように思われます。
新聞が自覚的にも無自覚にも
自らの力を手放していくのは
読み手にとっても損失で
あるように、そう感じられます。
ここでポール・ヴァレリーをひくのは
衒学的にすぎるかもしれません。
ただ、自身の記憶に残すためにも
『我らが至高善 「精神」の政策』の
一文を、書き留めておきたいと思います。
話されたものであれ、
書かれたものであれ、
言葉に対する信頼感は、
足元がしっかりして
いなければならないと
考える人間には不可欠である。
たしかに我々は時に言葉を
疑うことはあるだろう。
しかしその疑いは
個々の事例に限定されて
いなければならない。
強制的な視聴料で成り立ち
全国放映が約束されたなかで
多彩なスキャンダル歴がある
テレビ局の報道ご出身の
「何でも書き屋」さんに
活字の流通が翻弄されている
場合ではないように思います。
頼まれてもいない
妙な決意ではありますが
しっかりと持てる読解の力を
行使していきたいと考えています
http://gakudou.kankendo.com
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