作文と読解力と巷間
喧しくいわれるように
なっているのにもかかわらず
いっこうに作文力と
読解力が身についているとは
到底思えなく、自身を
振り返るためにも
ここ1週間で蔵書を
できるだけ手に取り再度
目を通していました。
世の中に出版される新刊書の
内容が難しくなっているのか?
それとも自身に読解力が
そもそもなかったのか?
あってもわずかだったのか?
そのわずかな読解力も
すでに衰えているのか?
いろいろと些細なところから
仮説をたてて、これまた小さな
検証を進めたところ
他人のせいにするようで
気が引ける検証結果が
手のひらに残りました。
編集者とデスク、そして販売部。
つまり出版社が劣化している?
それも、激しく衰えているのでは?
という結論です。
衰えの顕著なところは
ズバリ! タイトルです。
現在、無数に発刊される
新刊書のすべてに目を通している
わけではないので
一概に言いきれないのですが
書籍のタイトルと内容が
ピッタリきている新刊書が
かつてよりも少ないと
そう感じられるのです。
とくに、新書。
このジャンルがたどっている
質の劣化は、目に余るものがある
と断定しても過言ではありません。
1.内容に沿った素直なタイトル
2.内容がいいのに大げさなタイトル
3.内容がなくひとり歩きしているタイトル
4.檄文を許したうえに過激なタイトル
5.もはや帯の惹句のようなタイトル
1に近いほどひっそりと販売され
5に近づくほど新聞広告にはじまり
各書評へねじ込まんばかりに
表出されています。
「お相手によって態度を一変する」
とてもお聞き上手なテレビ営業の
女性作家さんによる新書が
いい意味でも、悪い意味でも
マイルストーン(画期的作品)
だったように、思われます。
昆虫好きのおじさんによる
新書は、あくまでも余技の域。
新書販売のタッチストーン
(試金石)だったと思われます。
まわりくどくなってしまいましたが
自身の読解力を云々するのならば
まずは、「1」の新書その新刊書を
手に入れてからだということです。
それが現在、とても難しい。
読解力を身につけることよりも
その力をつけるための書籍に
巡りあうことのほうが
なにより難しい。
さらに、“熱帯雨林”の名を冠した
ネット販売に随時、掲載されている
感想文が「5」よりもあてにならない。
書籍に対し賛否どちらにしても
内容との距離が「熱すぎる」か
「冷たすぎ」て数多ある感想文から
思考がほとんどできないのです。
最後の“熱帯雨林”はつけたりですが
現在、読解力は冷静な書籍探しから
はじまるともいえる状況です。
当然ですよ! 遅くなくて?
と、すでに実践している方も
いらっしゃると思います。
そんな堅実な本好きの方々も
コップのなかの
ゆでガエルを肝に銘じ
かなりしっかりとした
意思を持続しないと
「1」の新刊書が自分から
遠ざかるばかりの厳しい環境。
それだけ危機的な状況といえます。
本との素敵な偶然の出会いは
しっかりとした書籍との
つながりがあってこそです。
書籍との出会いを
千三つにしてはならないと
自身の読解力を探りつつ
微力ながらもせっせと
本の動画を配信しています
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メールで国語の健康診断をお届けします。
まずは、教室までメールをお送りください
gakudou@kankendo.com
作文と読解力について
動画の制作から考えてみます。
と突然、動画の話をするのは
【本に書き込む勇気】と題して
毎日、主に文庫や新書を1冊ほど
取り上げて本の紹介動画を制作。
youtubeにて、配信しているなかで
ひとがもつ読解力の何たるかについて
深く考えさせられたからです。
動画でご紹介している書籍は
自身が購入し、そのページへ
書き込みをした本(一部雑誌)に
限定しています。
今朝で、80冊目。
当初は本の内容と、頁への書き込みを
なんとか伝えようと腐心しておりました。
いまから考えるとなんて
さしでがましい! とさえ
感じられ、配信開始のころの
動画を見ると、その意気込みに
むしろ微笑ましくなってきます。
この「意気込み」がカラダから抜け
厚かましさが薄まってきたのは
自身が制作している動画が
「本に出会う」ときの思考の流れ
そのままをなぞっていると気づき
より丁寧に紹介の要素を
組み立てるようになってから
といえます。
ちょうど70冊を超えたあたりです。
そんなころ、紙の書籍と
WEBの情報伝達との
関わりについて話題に
なったときです。
ある方がふと
大学院生のころ教授から
図書館のなかを歩きなさい
といわれていました
と語りました。
その言葉をうけたとき
制作している動画につながり
「読解力」の見えてなかった
一面に思いにいたったのです。
そうか! 読解力はなにも
文章に接してから
行使されるだけではなく
文章に出会う、かなり前から
その力は行使されているんだ!
自身の行動を考えてみると
たしかに、新刊書店へ図書館へ
足を運ぶ前からすでにして
まだ見ぬ文章のことを
あれこれと考えている。
書評でチラと目にした
文章のこともあれば
こんな書籍はないかなあと
想像している文章のこともある。
そんなとき、思いもよらない
本や文に出会い、それがかなり
歯ごたえのある内容であっても
手に取り目にした瞬間
棚に戻したくなるほど
理解できないわけじゃない。
となると、文章に出会うまえに
その文章を理解するための
「読解力」がどこかで確実に
働いているに違いない。
そう、思いいたったのです。
言葉にしてみると
当たり前といえば当たり前の
ひとがもつ思考の流れです。
ですが、いま制作しつづけている
本の動画がこの「前期読解力」とも
名づけてみたくなる力に訴えかけている
と考えると、いろいろな現象に
あらためて合点くるところがあるのです。
この「前期読解力」を
【本に書き込む勇気】動画にて
丁寧に掘り起こしていきたいと
そう、考えています
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作文と読解の力を
身につけるのではなく
行使することにこそ
神経を集中する。
ここ数日ほど文章を
書くことを考えず
ひたすら考えることを
考える自分を感じる
という内燃機関の
振舞いのような動きで
新聞を読んできた
ひとつの結論になります。
現在、巷間賑わせている
新聞社の顛末を冷静に
考えてみますと
そもそもが読み手側が
読解力を身につけなければ
新聞の記事に書かれている
内容を掴み咀嚼することができない
と、決してそうは思ってなくとも
どこかでなんとなく了解していた
ところから来たものではないかと
そう感じられてしかたありません。
ご丁寧に頼んでもないのに
個人の情報を世間さまに
ご提供する教育事業会社と
厚かましくも語彙力検定などと
はじめたころから紙面が顕著に
変化していたことを
読み手として真摯に
受けとめていれば
もっと早くに新聞が伝える
書かれた言葉と健全な距離が
とれていたのではないかと
悔やまれてなりません。
新聞なんてまったく読まない。
なくても別に生活には支障ないし
そんなものに月5000円なんて
高価過ぎる。ネットでタダで
読めるじゃん。新聞って間違ってるし
どこまでも正しいこの思いが
どこまでも辛い
個人で権力と対峙する
環境の固定化を招いてしまう。
それを恐れて、とっていた新聞が
新聞の言葉を精査する時間に追われ
目を通す気さえ失せてきてしまう。
新聞がなにかの“権力”であり
それを感じていたからこそ
知っていながら新聞がもつ
“権力”に対して対価を
払ってきたところが多分にあります。
新聞の威力は、紙に刷られた
大小無数の文字にあります。
ラーメン店の卓上に
ステープラーで閉じられ
油染みた紙面があれば
手に取られる確率がとても高い。
器に盛られた湯気のぼる麺と
同一平面上に文字が並ぶところにこそ
新聞の「真の力」があるはずです。
その場で新聞から読解力をつけよう
なんて思うことは寸毫も起こりえません。
ただ、ん? と感じたことには
持てる読解の力を麺が伸びない程度に
働かすことはあるはずです。
しかし、それは新聞が伝える
個々の事例(事象)であることが望ましく
新聞自体の言葉がもつ真偽性に
呆れ返ることではないように思われます。
新聞が自覚的にも無自覚にも
自らの力を手放していくのは
読み手にとっても損失で
あるように、そう感じられます。
ここでポール・ヴァレリーをひくのは
衒学的にすぎるかもしれません。
ただ、自身の記憶に残すためにも
『我らが至高善 「精神」の政策』の
一文を、書き留めておきたいと思います。
話されたものであれ、
書かれたものであれ、
言葉に対する信頼感は、
足元がしっかりして
いなければならないと
考える人間には不可欠である。
たしかに我々は時に言葉を
疑うことはあるだろう。
しかしその疑いは
個々の事例に限定されて
いなければならない。
強制的な視聴料で成り立ち
全国放映が約束されたなかで
多彩なスキャンダル歴がある
テレビ局の報道ご出身の
「何でも書き屋」さんに
活字の流通が翻弄されている
場合ではないように思います。
頼まれてもいない
妙な決意ではありますが
しっかりと持てる読解の力を
行使していきたいと考えています
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作文を書くにも書籍を読むにも
文字と接することになります。
最近、その文字についての
物質性を考えることが
多くなりました。
書籍を紹介する動画を制作。
youtubeにて配信するようになり
本日で72冊目となっています。
私が書き込みを入れた
書籍の見開きを一部撮影して
1本の動画に編集する。
この繰り返しのなかで
はじめは書籍が物質であることを
否が応でも感じていたのですが
あるとき、書籍ではなくて
紙面に並んでいる行さらに
ひと文字、一文字自体を
立派な物質として
意識している自分に
気づいたのです。
明朝体のタイポとか
字送り、行送りといった
意匠的な物質ではなく
石や木や肌などと、同じ部類の物質。
文字がそんなものに感じられたのです。
人はそれを「フェチ」
というかもしれませんが
どうもそのように
執拗な偏愛はなく
ただたんに、それなりに
持ち重りのするものを
動画のなかに、つまり
データのなかにせっせと
自分の手で送り込んでいる
そんな感覚です。
個人がもつ妙な感覚のうえに
さらに話は飛躍してしまいますが
ひとが感じるこの物質性を
データのなかに送り込み
データの表現形式をとおして
(今回の場合はyoutube動画)
ひとと共有することの先に
紙の書籍と新しい形態の書籍が
共存する世界が広がるのだろう
とうい予感がしています。
取次システムに胡座をかいた
ミリオンセラー狙いの
書籍づくりと販売により
紙の書籍をつくりだす
人の文化は自滅するかも
しれませんが
紙の書籍自体の存在意義は
滅することはないと思います。
スキンヘッドのゼロ戦男による
単行本ばかり並んでいれば
紙の書籍がもつ存在意義に
気づかなくなるのも
しかたのないことです。
その方向で考えますと
電子書籍が紙の書籍を圧迫する
こともないと思われます。
どこかいつまでたっても
はじめの一歩的な様相を拭えない
現状の電子書籍の形式こそ
消えてなくなる可能性が高い。
そう思われてしかたありません。
現状の電子書籍がもつ
データの永続性には
かなりシビアな視線を
おくったほうが無難です。
自身の考えは、けっして
紙の書籍礼賛ではありません。
ただ紙の書籍に接する
人の感覚を深く考えると
紙の書籍とまだ見ぬ
何らかの書籍が共存する
そんな世界が見えてくる
ような気がしています
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作文や読解の力を
身につけるために
新聞を活用する
その環境をここで
一度、冷静に考えて
みたいと思います。
結論からいいますと
新聞の記事そして文章を
エンターテイメントとして
ただ単純に、楽しむことができる。
新聞がつくりだすこの環境こそが
新聞を活用しながら
作文や読解の力をつけることへ
繋がると、考えます。
新聞紙面で人を楽しませる
文章を書きたいと考えている人。
そのような書き手を
新聞がつかまえているか?
そんな書き手が人を楽しませるために
寄越した文章に、新聞がしっかりと
紙面や紙幅を割いているか?
そのどちらもがいくらか
担保されているなかで
さらに、そんな文章に
日毎、短い時間で
出会うことができる
という課題がクリアされて
やっと作文と読解の力が
つけられる環境が整うと
考えるわけです。
記事を書いている本人が
どう考えているかはわかりませんが
巷間喧しい「お詫び文」は
かような条件に照らし合わせると
第一級のエンターテイメントであり
さらに、嫌でもすぐに
出会うことができるという
類まれなる条件クリア力によって
作文と読解の力をつけるために
活用できる素晴らしい
教材となっています。
新聞記事がそもそも
エンターテイメントである
ことを小気味よく伝える文を
ご紹介します。
マーク・トウェインは、
文章の軽業師、生まれつきの
<エンターテナー>で、
文学から文学を編み出す
前衛的な作家に似てなくはない
方法をもちいた。
たとえなんであろうと、
もとになるテクストを
手にしさえすれば、
彼はそれをいじくって、
たちまち短編をものにする。
だが、[彼の場合]その原典は、
文学にまったく関係のない
ものでなければならない。
たとえば、シャーマンの
司令官に納入した牛肉の缶詰
についての関係省庁への報告、
ネヴァダの上院議員から
有権者にあてた書簡、
テネシーの地方新聞に
掲載された論争、
農業新聞のコラム、
落雷防止法のドイツ語の手引書、
はては納税用の申告書、
といったふうに。
マーク・トウェイン
『ハドリバーグを墜落させた男』
『なぜ古典を読むのか』
イタロ・カルヴィーノ著
須賀敦子 訳 河出文庫
そのマーク・トウェインは
ある書簡でこう述べていた
といいます。
-ひたすら、大衆という
大きな獲物を追うことに
かまけていた。
それも彼らを
教育するなどという
心がけからではなくて、
彼らを愉しませるために、
できるだけのことをしたいと
考えてきた-
新聞を、作文と読解の力を
身につけるために活用するならば
マーク・トウェインのような
書き手がもつこの誠実さに
接することができる環境があって
はじめて、その活用が
かなうはずです。
長くはなりましたが
そこを冷静に見つめて
いきたいと考えています
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作文や読解の力を
つける以前の問題に
アタマを抱えています。
言葉と活字の問題を
いまここでどう捉えるか?
ほとほと困っています。
頭の片隅で記憶していた
文章を探し当てたので
ここで、ご紹介します。
大佛次郎 『敗戦日記』
昭和二十二年二月十二日
水口君が来る。
この三四月が危機を
予想させられるので
小説の掲載が問題となり、
乞食大将百拾回ぐらいで
中止ということである。
戦局も世態もそこまで
悪くなっていることならば
已むを得ぬことであるが
敗戦的風潮が社会の
上層の確信?となり
つつある点は驚くに値す。
編輯局長は酔中の発言なるも
戦争はもう済んでいる、
俺たちは戦後の新聞を
作りつつあるのだと
いったそうである。
草思社 1995年刊
それはいまでも
つづいていること。
言葉を伝えたいのではなく
新聞を届けたいのだろう
と考え、けっして
学ばないようにするのみ。
20年前の単行本を
掘り出してやっと少し
冷静になっています。
とはいえ、突き放した
思考がどこかできず
なんだかみっともない。
新刊書の広告と書評へ
ふれるためだけなのに
ムダに悶々とする
朝がつづきます
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作文と読解の力はなにも
小学生だけがコツコツと
身につけていく能力ではなく
大人こそが、生涯かけて
維持さらに磨きをかけてゆく
力とも考えられます。
そこで自身はいつも
ゆっくりと苔むすように
文章の力を人生のともに
している先達の話に
ふれるようにしています。
どこで、そのような
人や文に出会うか?
出版社が書店にて
こじんまりと配布している
読書人のための冊子
その本だらけの誌面で
パタリと出くわします。
岩波書店なら 『図書』
新潮社なら 『波』
講談社は 『本』
紀伊國屋書店なら 『scripta』
などなど、定価はあるけど
書店員さんに声をかければ
無料でいただける雑誌です。
それらの雑誌、じつは
苔むすような文章の宝庫。
有名な作家によらない
読書好きが読書好きに書いた
思わず涙が流れてしまうような
キラリと光る名文に
ふとした拍子に出会う
確率がとても高いのです。
今日もちょうどお昼前
9月の新刊でも目をとおして
おこうと思い手にした
岩波書店 『図書』
2014年9月号で
苔むす名文に出会い
不覚にも昼間から涙が
滲んでしまいました。
無断掲載になってしまうので
全文はご紹介できないのが
とても悔しいところ。
名文の一部を抜粋して
お伝えいたします。
ビジネスリーダーが
薦める岩波文庫 1
櫻井 修 氏
さくらい おさむ
三井住友信託銀行
特別顧問
日本語の美しさに圧倒された
いつ召集令状が来ても
おかしくない状況の中
自分の人生とは何なのか
寮の部屋で友人たちと
徹夜で語り、議論をした。
やがて友人ひとりに召集令状が来た。
またひとり、またひとり……。
明日入隊、シャバで過ごすのは
今夜限りという最後の時間
彼らは読み残した本を読み
「先に行くよ」と言って入隊していった。
私も、読書家の友人たちが残していった
本をむさぼるように読んだ。
地獄のような現実、残り少ない時間の中で
本を読んでいる時間だけが
「生きている」ことを実感できた。
『にごりえ・たけくらべ』は
明治初期の江戸庶民の哀歓を
美しい日本語でパーフェクトに
表現していた。
「これが俺の育った日本だ」と、
焼け野原の東京を前に、涙が溢れた
全文でないのが、本当に残念。
書店に足を運んでいただき
『図書』 9月号を手にして欲しい
そんな文章です。
櫻井氏は、ほかに 『いきの構造』と
『山月記・李陵』 をあげて
いまの若い人たちに
日本語の美しさに目覚めてくれればと
短い紙幅で語っています。
読書は人と人とを、言葉と言葉を
そして人と言葉を、時間を超えて
つなげる静かな力があると
あらためて確信するに至りました。
自身は、やはり読書とは人にとって
必要な「理想(主義)」を現実に据える
大事な時間と、そう考えています。
その時間を、自ら手にする力が
本当に必要な読解力かもしれません。
ちなみに、岩波は好きではありません
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