作文と読解の力をつけるようにと
小学2年生の長男がコツコツと
夏休みにはじめた、詩の書き写しと
写した詩の感想と挿絵の創作。
8月31日(日)夏休み最後の日に
かれが、夏休みの集大成として
今朝、ひとり詩作を行いました。
その作品を、ご覧いただけ
ましたらと思います。
あめ
そらから
しずくが一つぶ
ポトッ
そらのなみだかと思ったら
ぽとぽとぽとあめでした
あめはそらのなみだかと
そらにかおがあるのか
あめはそらのなみだ
かおからしずく一つぶ
大つぶこつぶと
ぽとぽとどんどんどんどん
おちていき
それがいつか
大きなきれいな太ようが
でてくると
みんながえがおにっこり
ぱっと
せかいじゅう
が
あかるく
わらい……
2014年8月31日
添削なしの「撮って出し」です。
かれの創作ノートを見ると
最後の「わらい……」になる行で
「わらい」と「わらう」で
書いたり消したりのこすり跡。
どちらかと悩みつづけたとのこと。
さらに、2連にこだわったそう。
ことばで何かを捉えて行こう!
という彼の顔に滲み出る心意気を
ゆっくりとたっぷりと褒めて
長かった小学2年生の
夏休みも、これでおしまい。
ことばでしっかりと
かんじたことを
つかまえられるように
たくさん詩を書いてください
そう残した朱筆を置いて
自身の読書に戻ります。
子どもが送る夏の40日間は
その日その日はとても
のっぺりしているのに
終わると限りなく濃縮された
時間のように感じられます。
と、本人が思っているか
わかりませんが、ともあれ
かれが、なにかをつかんだのは
どうも確かなようです
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作文と読解の力の基になる
思考力をつける習慣を
この2014年の夏休み
小学2年生の長男と
行ってきました。
その習慣とは、毎朝
疑問をスケッチブックに
書き出していくこと。
彼は、小一時間かけて
白紙の画面にえんぴつで
日々、5つ以上の疑問を
書き連ねていきました。
どうして耳から音が
きこえるんだろう
7月29日(火)
電子レンジはどうして
あたたまるんだろう
7月31日(木)
夏休みはだれが
きめたんだろう
8月1日(金)
人はどうして
しんじゃうんだろう
8月2日(日)
数字はどの国から
生まれたんだろう
8月4日(火)
昔はなにで旅行を
していたんだろう
8月15日(金)
時間をつくった人はだれ
8月20日(水)
花火はどうやれば
きまったかたちになるの
8月24日(日)
ろうそくもでんきもない国は
どうやってくらしている
8月28日(木)
などなど、彼が懐いた
疑問の一部になります。
答えは調べないで
ひたすら疑問を
言葉にしていく。
このさまざまな疑問を
思いつくことで、かれの
何かがかわったか?
自身から見て、一見
何もかわっていません。
ただ、疑問を
考えているときは
時間を気にしない
そんな新しい一面を
見せるようになりました。
さらに、朝だけでなく
時間差で、疑問について
聞いてくることも。
どうやら、気になった疑問は
頭のどこかで考えつづける
ようになったようです。
どれも、彼の外に現れた
ちょっとした言動から
推測しているだけなので
彼の内なる部分に生じた
確たる変化かは、どこか
わからないところがあります。
たぶんおそらく、長男は
当面、テストや学校の
成績は思わしくないかも?
と、自身は確信しています。
時間内にテストの
問題を全問解くようなことは
まず、できないハズです。
ですが、それ以上に彼は
考えることに自信をもったと
そう、身近にいる大人として
やんわりと、感じています。
責任をもって自身が
長男と考えることの楽しさを
しっかりとわかちあう
夏休みが終わり
2学期を迎えるにあたり
つぎは、自身が柔軟な
思考力を使っていかねばと
心しているところです
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作文の世界から少し離れ
本日は、小学2年生の長男と
母校の多摩美術大学が
企画・運営している
生涯学習プログラム 2014
好奇心の学校 あそびじゅつ
多摩美術小学校開校へ
参加してきました。
子どもを講義に預けたあと
しげしげと踏み込む
鑓水の八王子校舎。
その変貌ぶりに
ただ、ただあ然となり
息を呑みました。
いちばん驚かされたのは
2007年に完成した
新・図書館の充実ぶりです。
その新しい空間は
美術・芸術を知の領域で
発展させるための場に
なっており、自身のなかで
生まれてくる時代を
間違ったのではないか
とも思わせる
そんな知の集積と開放。
敷地の向かいには
新興の住宅街が開発され
ここに引っ越してきても
いいのでは? とまで
思わせる変貌でした。
いまのいままで、よくもわるくも
人間以外には褒めるところの
ちっともない大学と思っていた
認識が、ひっくり返り
まさにパラダイムのシフトです。
で、帰りの車のなかで
子どもの話に耳を傾けながら
冷静に考えたところ
大学の新図書館が機能として
素晴らしいのもさることながら
これからの知の方向性を
具現化したその思考が
卓越したものをもっていた
ことに気づきました。
「本は個人でもつものではない」
文字で表すとしごく単純ですが
かなり深いところにある思考です。
どんな本にも書き込みをし
書籍は読みたおすためにあると
考え実践してきた自身にとって
1冊の本こそが、知の「ノード」と
考えていました。しかし、いまや
知の「ノード」は、図書館であり
書籍は「リンク」でしかない
新・図書館をくまなく見学して
そう考えるようになりつつあります。
図書館とは、もともとそのような場でしょ。
と、云われてしまえばそれまでですが
本や雑誌を1冊づつ、つくることに
関わって来た身には、正直なところ
見ているようで見ていなかった
ところでもあります。
話を、あそびじゅつに戻して
講師役をつとめられた教授。
海老塚先生の終わりのことば
制作は終わりのないゲームです。
いつまでも試行錯誤をつづけましょう。
できるかな? やってみてください。
子どもが、制作で苦闘したのち
先生のことばに触れられたのは
とても幸せなことのように思います。
少子化時代の子どもは
機会をつかめるという意味で
とても恵まれています。
肯定的な面をもっと
見つめていかねば
そう、考えています
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作文をはじめとする文章について
個人の感覚に属する範疇にあるので
指摘されることは少ないのですが
文章そのものがもつ「熱さ」そして
「冷たさ」と呼べるものがあります。
伝えたいことと、伝えたいひと。
書き手がどちらにより近く立っているか
で、文章が「熱さ」をもっているのか
反対に「冷たさ」を纏っているかが
読んでいるうちにわかってきます。
伝えたいことに近いときは「熱さ」。
読み手に近いときは「冷たさ」と
概ね、こういうことができます。
ひとつの書籍、作品が「熱さ」
だけで書かれることは少なく
「冷たさ」のある文章とで
構成され、自然と読み手が
息をつけるようになっています。
「熱さ」だけの文章があれば
空気循環のない密室で、ラー麺を
味わっているようで、自ずと
ページはパタリと閉じられます。
「冷たさ」だけの文章も
味のわかりきっているお冷だけ
出されて、待たされつづけるようで
注文した品が出されないうちに
そそくさと、お暇してしまいます。
この文章の「熱さ」「冷たさ」を
利用して、本編を読んでいない書籍が
自分にとって面白い本かそうでないかを
数分で、判断することができます。
本の【あとがき】です。
「冷たさ」のある文章で
最後までお供をしてくれた読者に
「熱さ」のある文章で構成された
本編の内容を、もう一捻りして
ちょこっと、再解釈してくれる。
著者によるこのような
丁寧なサービスがあり
読者としての自分が
書き手のいわば「親心」に
触れることができれば
その書物は、いつか時間をとり
ひとりじっくりと読んでみる
価値が十分あるものと判断できます。
著者による【あとがき】にあわせて
他者による【解説】を先に読み
「冷たさ」のある文章で書かれた
解説のどこかに、「熱さ」の思わぬ
味わい方が記されていれば
やはり、手にとったその本を
最後まで読んでみる価値があります。
話が前後して、申し訳ありません。
はじめて手にした書籍はすべからく
書籍の奥付(発行日などが記されている頁)と
あとがき、解説の頁へ真っ先に目を通します。
結末を知らずに楽しむ部類の
書籍は、この限りではありません。
掟破りの【あとがき】もありますから
どうぞ、しっかりとご注意ください。
最近の読書で、実例をご紹介します。
【あとがき】で完読を保証された書籍に
『近現代日本史と歴史学』 成田龍一著 中公新書
この書籍は、【まえがき】も素晴らしいです
【まえがき】で完読を保証された書籍に
『非線形科学』蔵本由紀著 集英社新書
【解説】で完読を保証された書籍に
『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子著 文春文庫
などがあります。
いずれも「冷たさ」のある文章で
「熱さ」のある文章を味わう方法を
ちょこっと教えてくれる
独特の小気味よさがあります。
昨夜 庭前 葉に声有り
陶陶と読書を楽しむ秋が
すぐそこまでやってきています。
暑さの残るこの時期、書店や図書館にて
「冷たさ」のある文章に、ちょこっと触れ
秋のお供になる一冊を、探してみてください
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作文や読解そしてふだんの会話。
ことばにまつわる数々の実力は
何によって身につくのか?
大上段に構えた疑問を
ちょっと考えてみます。
答えからお伝えします。
ことばに関する実力は
人を不安定にさせるものを
楽しんでしまう感覚に
蓄積されていきます。
自分を揺さぶるようなものは
ときに忌み嫌うもので、それらを
楽しみすることは難しい。
ただ、揺さぶられている
当の自分を楽しむことは
忌み嫌うこと自体を楽しむよりも
いくらかやさしいと思います。
何事かをことばにしていく力は
この揺さぶられている自分自身を
ことばにすることでついていきます。
不幸な出来事が自分の身に
突如、ふりかかってきたとき
「ことばにならない」そんな
状況に、どうしても陥ります。
そのとき、出来事それ自体に
大きく揺さぶられてしまい
さまざまな苦痛からその出来事を
ことばにすることができなくても
揺さぶられている自分を
時間をかけゆっくりとことばへと
変換していく。その行為が
いまいる自分を安定させていく
ことへとつながっていきます。
状況として「楽しむ」ということが
世間的に、たとえ不謹慎であっても
自分自身をことばに変える
そのことをゆっくり楽しんでいく。
ここに、ことばの力が生まれます。
そのようにして出来上がったことばが
もし、人に伝えにくくなっているとしたら
そのときは、まわりを疑っていきます。
不安定を「楽しみ」ながらことばにして
安定させた自分自身の精神的な作業を
疑ってしまうことは、次なる危機を
自分に招いてしまうからです。
と、大上段とこわったゆえ
なにやら小難しい話に
なってしまいましたが
結局のところ
ことばにまつわる実力は
なにも、国語の勉強だけで
身につくものではありません。
そう、お伝えしたかったのです。
自身は、数え45歳となり
ご老人がたくさんいらっしゃる
病室に入り、遅ればせながら
このことに気づかされました。
日毎、病室やベンチで繰り広げられる
ご老人の艶話、恋話。そのさまざまな
修羅場について語る彼らがもつ
ことばの力は、決して座学で
身につくものではありません。
不謹慎なぞ、ものともせず
たとえば、ふたりでたっぷり
脚を蚊にくわれて……と語りだす。
つづきは、ご想像にお任せします。
国語の学童では、この辺で
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作文と読解の力は
本を読んだり、文章の技術を
習得するだけで身につく
ものでもありません。
実際に、口と耳を使って
会話をつづけることからも
作文と読解の力を
身につけることができます。
とくに生と死にまつわる事柄に
関しては、書物よりなにより
人と動植物、つまり生き物の
なかに自分を置き接することで
疑問を疑問として理解しながら
なんとか納得しようとする力を
手にすることが可能になります。
と、もってまわった言い方を
しているのは、他でもない
小学校2年生のわが子が
「ばあばは死んじゃうんだよね」と
布団のなかで泣きだしたからです。
もちろん、当のばあばは
元気でいつもどおりピンピン。
かれが自身で死と祖母を結びつけ
いつか来る日を思い、悲しみが
寝際をおそったようです。
そうか、死にまつわる疑問から
悲しみそして得も言われぬ恐怖を
心のどこかに抱え込むように
なったんだなあと思う一方で
自身が昨夏、2回の手術で
同意書を主任看護師さんへ
手渡したときの心境に
ふと、思いを巡らせました。
医師のレクチャールームで
執刀医を待つ間、ベテランの
看護師さんへどこか打ち明けたい
気持ちに駆られ-
死って突然やって来るとは
思えないんです。小さな死が
体のどこかにあり、徐々に
生を占領して、あげく死が
訪れるように思うんです。
どんなに健康でも、体の
どこかで死が動いている。
だから怖いと思えば怖いし
そんなものかと体のなかの
死を飼い慣らした気でいれば
手術は、生と死の境界線を
ズラすことなのかなあと
そう思って同意書に
サインしました
-そんなことを伝えました。
手術前の自身は、記憶があるなかで
なぜか、いちばん冷静でした。
どこでその納得を得たんですか?
と、いったん言葉を閉じてから
何人もの死を見てきましたが
私もそう感じています
と、手術に必要な持参の備品を
確認しながら応える看護師さんの
姿が、ちょうど1年たったいまでも
目前に、ありありと浮かんできます。
自身の死生観は置いておくとして
生と死にまつわる感情と意思は
どうしても生きた人と人の間でしか
伝え合うことができない。
そこは文字の領域ではなく
声と、その声に応答する声だけが
人を人たらしめるように感じられます。
おそらくその声の領域こそが
本来の意味での読解、了解することの
時間と場であると、そう思います。
書物にあたるまえに
人物にあたり了解を得る。
そんな「読解の力」を身につける
子どもが得たとても稀な機会を
大事にしていきたいと考えています
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作文を書くことが
多少なりとも好きになると
他人の文章がとても
気になってきます。
そうなると文章
それ自体に心を奪われる
ことが頻繁に訪れ
さらに上手い文章に出会うと
つり革に手をかけている
電車のなかだろうが
静かな図書館の
開架前だろうが
ところ構わずその場で
ニッコリと微笑む
ようになります。
このニッコリが
どこから生まれるか?
かなり昔からの疑問で
記憶をたどると
何年生だったかは
さだかではないのですが
小学生の夏休みに
どくとるマンボウ航海記を
ひょんなことから読んで
頭がガタガタと鳴ってから
の疑問だったような気がします。
で、そのマンボウ航海記で
鳴り響いたガタガタの
感触を思い出した文章に
およそ40年後に出会ったので
ここに、ご紹介します。
僕は著者として
感じていることを知りながら
同時に読者が感じていることを
知ることができます。
これはとてもいい。
どんどん先に書き進む
ことができます。
というのは僕は読者と同じように
次に何が起こるかを一刻も早く
知りたいからです。
『夢をみるために
毎朝僕は
目覚めるのです』
村上春樹インタビュー集
1997-2011
村上春樹 文春文庫
昨夏、大病で1月半ほど
入院していたときに読んでいた
1冊を見つけ、パラパラと眺め
目に飛び込んできたくだりです。
上手い文章に出会うと
ニッコリの生まれる理由が
「丁寧な時間」に巻き込まれた
幸運に思わずニンマリしてしまう
そんなところに
あるのではないかと
村上春樹の言葉を読んで
ハタと気づきました。
そういえば、病室でも
同じことを考えており
「丁寧な時間」云々という
ことばに行き着いたのは
2つの手術を控えている身で
ことほか「丁寧な時間」を
意識していたからだったことを
またここで、思い出しました。
なにか思い出したり
気づいたりばかりですが
そもそも、国語の学童
よみかきのもり を
はじめよう! と考えたのは
上手い文章に出会ったとき
ニンマリすることの楽しさを
少なくとも、わが子とは
共有しよう!
と、考えたからでした。
ところで、本ばかり読んでないで
自分の思考を冷静にたどる時間が
大人には1日のどこかで必要だと
最近、深く思い知らされています
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作文に一行日記
自然観察に自由研究。
8月も15日に迫ると
さすがに夏休みの宿題に
少しは目配せしないと
厳しい状況をむかえてしまいます。
そこで、小学2年生の
わが子による自由研究を例に
宿題のひとつ、自由研究を
身近なモノを使い
2週間で楽しく完成する
コツを、お伝えします。
かれが今夏、研究対象に
定めたのは、バーコード。
自由研究は、研究対象を
眺めることで、その90%は
完成してしまいます。
ただし、対象を眺めながら
根源的な疑問を出すことが
条件になります。
ここが、自由研究の
最大のコツであり要点です。
研究対象を眺めながら
根源的な疑問を出す。
これさえしてしまえば
大げさな実験も検証も
小学生らしからぬ
プレゼンの体裁も
まったく必要なくなります。
反対から眺めると
研究対象から疑問が
出てこない場合は
膨大な文献にあたり
資料をまとめても
自由研究としては
残念ながら
未完成に終わります。
さて、かたっぱしから
バーコードを集めノートに
貼ったわが子との疑問出し。
切り抜いたバーコードを
前に、どんな疑問が
出てくるのやら期待半分。
テーブルで会話が
はじまります。
バーコードに1本
線をつけたらどうなるかな?
いきなり応用から
はじまった疑問。
さて、どうなるんだろうね。
バーコード眺めていて、もっと
根本的な疑問は出てこない?
どうして線の太さが
違うんだろう?
すごい! いいね!
どうしてなんだろうね。
おなじような疑問
もっと出てこない?
喧々諤々、子どもが
たどり着いた根源的な
5つの疑問はつぎのとおり
1.どうして
数字と線だけなんだ?
2.どうして
文字が入っていないの?
※数字以外の文字
3.どうして
よこ線じゃないの?
4.どうして
線の太さがちがうの?
4つめで、最大の行き
詰まりが訪れ悩む子ども。
よーく、バーコードを
眺めてごらん!
弟(幼稚園の年少さん)でも
出て来る単純な疑問だよ!
見たまんまなんだから。
5.どうして
1色だけなんだろう?
はい、出てきました(笑)。
疑問は、言葉にされると
はあ、そんなことと思うけど
その単純な疑問を
モノを眺めながら出し
簡素な言葉にすることは
じつはとても難しい。
そこを、子どもと共有し
研究の手順作成へと進行します。
1.バーコード集め
2.ぼくの疑問
3.調べる
4.ぼくのバーコードづくり
5.実験 スーパーマーケットで
こっそり自作コード読み取り
6.感想
最大のお楽しみである実験は
バーコードの疑問を調べあげた
知識による自作バーコード
(おそらく手描き)を
スーパーマーケットの
セルフレジでチェックする
というアンタッチャブルなもの。
知識はつかってなんぼ
ですので、ここは親子で
ちょっとだけ線を越えようと
考えています。大丈夫かなあ。
夏休みもあと残すところ
2週間とちょっと。
身近なモノから
子どもが疑問を導き出し
まとめる自由研究には
ちょうどよい期間です。
ぜひ、子どもと大人で
テーマをみつけて
楽しんでみてください。
どんな夏のイベントよりも
心に残る思い出に
なるかもしれません
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作文にはじまる
夏休みの宿題の
手を休めて
ここはお盆休みなので
のんびりと過ごす
お供をご紹介します。
自分のもつ感覚と
審美眼を活かして
音楽を楽しむサイト
soundcloud
プロ・アマ問わず
世界中のアーティストが
自信作をアップ。
共有するサイトです。
作品を世に送り出す
アーティストも挑戦ですが
なによりその作品を味わう
聞き手も作品にコメントを付し
参加することで
音の感覚とそれを
小気味いい言葉にする
語感を試されます。
英語、仏語、西語に
アラビア語……
コメントの言語は
ワールドワイド。
悲しいかな日本語の
コメントは、ほぼ皆無なので
自身の得意とする外国語での
コメント入力になります。
実際に、コメントをすると
身につまされるのですが
音楽を聴いて、感じたことを
その場で言葉で伝えるとき
武器になるのは、外国語力ではなく
じつに、日本語力なのです。
つまり、母語の深い構築力
その重要性を、思い知らされます。
自身は、仏語で入力しますが
もちろん実力の問題もあり
どこか平板なコメントに
なるのは否めないところ。
しかし、母語の頭で音に
触発された自身の感覚に対峙。
曲に分け入っていく過程で
仏語の語構成と単語が
引っぱり出されると
拙さの残る平板な
仏語のコメントを
乗り越え、ちょっと深く
小気味いい言葉を
作品に伝えることが
できたように感じます。
はじめから仏語で書いてやろう!
と色気を出すと仏語にならない。
感覚のどこで母語が
仏語に変換されているのか
その瞬間がハッキリは
掴めないのですが
母語で曲に分け入った
どこかの地点にその転換点が
あるようです。
ひょんなところから
母語の重要性を思い知ったお盆休み。
またまたひょんなところから
たまには本を閉じる必要性も
感じているところです
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作文の宿題そして
課題図書と感想文の
夏休みも中盤。
ここで1冊ほどは
読んでおかないと
虫が盛んになくころに
苦しい思いをする。
気づくとそんな時期に
さしかかってきました。
で、課題図書。
読書は好物なのに
感想文が大嫌いで
そのまま、先生が
理由も説明せず
押しつける
夏目漱石を読みもせず
なんだか嫌いになり
恥ずかしいながら
数え45歳になるまで
避けてきました。
おなじく押し付けられた
宮澤賢治はどれも
生理的に受け付けず
教科書だけのまま
いまに至っています。
そのいまにいたるまで
避けていた「文豪」
夏目漱石が子沢山で
数え45歳で行った講演が
あることを思い出し
『私の個人主義』を手にとり
目次から一読したところ
めったになにしない一夜完読。
深く考えさせれました。
考えさせられたのは
かれの「子沢山」です。
私は家に子供が沢山おります。
女が五人に男が二人、〆て七人
それで一番上の子供が十三ですから
赤ん坊に至るまでズッと順よく並んで
まあ体裁よく揃っております。
明治44年8月に堺で行った
朝日新聞の『中味と形式』
と題した講演会で、そう
夏目漱石は語っています。
処々の異論は承知のうえ
やはり夏目漱石は、江戸・東京の
生活者であり教育者であり
思想家だったんだなあと
そう、深く納得しました。
自身には「子沢山」の
思想があるとかたく
信じているところがあります。
ヘーゲルしかり
ディケンズしかり。
前者は、育児放棄で
当時、スキャンダルを
招いたようですが。
この「子沢山」の思想とは
子はたくさん産んでもうけ
つとに育てなければならぬ
という思想ではありません。
私のなかで-
「子沢山」の思想とは
養育する子どもの多い
男つまり父親が直面する
圧倒的な孤独の時間を
下敷きにした思索。
そこから、滲み出てくる
思想のことをいいます。
話は飛躍する
かもしれませんが
その「子沢山」の思想には
共通してホッブスが
横たわっています。
万人とか平等とか闘争。
あげくリヴァイアサンなる
人格の創出へと導く思索。
ホッブス自身が
子沢山だったとは
寡聞にして耳にした
ことはないのですが
子沢山のヘーゲル
ディケンズ、夏目漱石には
ホッブスの説く「人の安定」が
見え隠れしているように
そう思われます。
そして、さらに飛躍して
「子沢山」の思想とする
夏目漱石の言葉をかりて
願わくばこれからの生活を
--実現の出来る程度の
理想を懐いて
ここに未来の隣人
同胞との調和を求め
また従来の弱点を寛容する
同情心を持して現在の
個人に対する接触面の
融合剤とするような心がけ--
夏目漱石が大切だろうとする
そんな心がけで導いて
いければ、と思っています。
現代でいえば子沢山の男。
3人の男児の父親として
数えで45年目に出会った
数えで45歳の夏目漱石の言葉を
日常に活かしていければと
朝からの子どもの秩序ない
騒ぎにメゲながら考えています
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作文を書くときには
言葉を探すことを
自然と行っています。
その言葉を探すときには
言葉の背後にある音を
どこかで聞き取りながら
文字にしています。
このことを、日本語の
「語構成意識」として
紹介している書籍に
最近、出会いました。
『日本語の考古学』
今野真二・著
岩波新書1479です。
例えば、マツノキとヒノキ。
「松」の「木」と複合語で
捉えるか? マツノキを
「檜」のように一語で
認識するか?
著者は-
自分たちが使っている日本語
特に古くから使っている日本語の
語構成をどの程度「感じる」ことが
できているのだろうか。
それはことばに歴史を
感じることができるか
という問いでもある。
と記しています。
以前、お伝えしました
まさに、いま自身が
疑問としている
「現代の口語日本語が
名詞を蔑ろにしている
だろう」現状の一端を
明らかにしている
ような文章です。
どうやら
日本語が持っている
音と名詞の関係。
この関係が時代を
経るにしたがって
どう変化してきたのか?
ということは
日本人がもつ語構成の
意識を変化させてきたのは
何なのか? を探ることで
現代の口語日本語が
どのように名詞を
蔑ろにしてきたか?
そのひとつの答えが
見えてきそうです。
余談です。
学生時代のように
四苦八苦してやっと
手がかりがつかめました。
やはり書店と図書館。
自身の蔵書がモノを
いいます。
ネットは、にわかの興味に
その威力を瞬間発揮する
「近くて遠い情報」と
つくづく感じています
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作文と読解の力を
身につけるとき
心にふと浮かぶ
小さな疑問について
考えてみます。
その疑問とは-
書きたいことは
自分の身に起った
ことだけども
ちょっと考えれば
それは誰の身にも
時と場所は違えど
やはり少なからず
生じていることで
いまさら自分が
ここで書くほどの
ことでもないかも?
という、じつは
根本的な疑問です。
そうそう特殊な出来事が
生きている間にポンポンと
起きることは少なく
作文を書く時間が
得られているということは
静かな落ち着いた時を
そこでは過ごしているわけで
作文を書くということを
正直に感じ考えると
いっこうにその筆が
進まなくなるのです。
そんな経験を
小・中学生のときに
したことがある人は
少なからずいる
のではないでしょうか?
じつはこの疑問に囚われ
まったく作文が書けなくなった
そんな時期があります。
この疑問をやり過ごして
いるだけで、解決していなかった
自分にはたと気づかされた
文庫新刊に出会い
そこにひとつの
答えがあったので
ちょっと長いですが
ご紹介します。
世界と人間
散文とは、言葉を通じての
ものごとの表現であり、
言葉を通じての表現とは、
ものごととわたくしとの
関係を限定することだと
いう場合に、限定するのは、
もちろんわたくしであって、
他の誰でもありません。
しかし、わたくしは、
ものごとの関係をわたくし自身に
対してだけ限定するのではなく、
同時に他のすべての人に対しても
限定するのである。
別の言葉でいえば、わたくしは、
わたくし自身に忠実である
ことがそれだけわたくしの
判断を普遍的にするという
信念に立って、世界を判断し、
意味づけるのであって、
わたくしの気ままな思いつきを
満足させるために
そうするのではありません。
世界と私との関係を限定することは、
わたくしにとって、世界と人間との
関係を限定することです。
『文学とは何か』加藤周一著
角川ソフィア文庫
~わたくし自身に忠実である
ことがそれだけわたくしの
判断を普遍的にするという
信念に立って~
小・中学生時代に、このような
信念を共有することができれば
作文を書くこと、書籍を読むことが
どこまで楽しい時間になったか。
やはり文章の技術だけでは
作文を書きたくなる思いが
生じることはありません。
とてもとても長くなりましたが
自身は、子どもたちとこの信念を
ゆっくりと共有しながら
子どもとともに
作文を書くことの疑問を
ゆっくり育んでいきたいと
そう考えています
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作文の力をつけるには
育児の時間での会話と
なによりも自分に合う
文章のお手本を
見つけることにあります。
誰もが云う鉄則です。
自身が理想とする文は
詩のような文章です。
そのひとつをご紹介します。
私の郷里柳河は水郷である。
そうして静かな廃市の一つで
ある。自然の風物は如何にも
南国的であるが、既に柳河の街
を貫通する数知れぬ溝梁のに
おいには日に日に廃れゆく
旧い封建時代の白壁が今なお
懐かしい影を映す。
※溝梁(ほりわり)
北原白秋 第二詩集『思ひ出』
序文「わが生いたち」の中の
一節になります。
これは自身の深い深い
思い込みでもあるのですが
「(没落)商家」出身の文学者
小説家が書く詩や散文からは
華やかな容姿のもとから
漆黒の影が伸びているような
どこか独特な画が感じられます。
さらに、詩が散文になり
散文が詩になっている
文章をみつけることが
多くあります。
そうはとれないと
思う方もいるかも
しれませんが
谷崎潤一郎に、
植草甚一と、小林信彦。
つけ加えて、橋本治など
自身の思い込みの
範疇にいる文学者と
小説・随筆家です。
脈々と受け継がれていく
日本語のなかで、自分の
カラダに馴染む文章を
見つけ、たくさん触れていく。
いつまでたっても
十分な文章力を身につけた
ような気がしないからこそ
誰もが云う地味な作業は
何歳になっても繰り返す
価値があると感じています
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作文と読解の力に
創作の楽しさを身につける
子どもの実践について
ご報告します。
長い夏休みだからこそ
まとめてどっぷりと取り組む。
さらに毎日・毎朝コツコツと
読み書きを積み重ねていく。
そんな日課を夏休みに
入ってから、わが子と
実践しています。
小学2年生の子どもが
取り組んでいるのは
図書館で自分で
探してきて選んだ
堀内誠一・絵
谷川俊太郎・訳
マザー・グース・著
『マザー・グースのうた』の
書き写しとその感想
そして詩作です。
詩集をめくって
気になった詩を
ノートに書き写し。
感じたこと
疑問に思ったこと
考えたことなどを
書き写したヨコに
綴っていきます。
夏休みに入り
7月から8月へ
ちょうど1週間ちょっと
たったところです。
はじめは、詩の面白さに
圧倒され、とおり一辺倒の
感想を、ちゃっちゃと
書いていた子どもが
マザー・グースの
詩の言葉に分け入っていく
かのような思いを綴る
ようになっています。
と思いきや作品に触発され
詩作をはじめたいと云い出し
言葉を探しながら
詩をつくり朝の時間を
過ごしています。
詩のいいところは
正解どころか
答えのない疑問と出会い
その疑問に刺激され
子どものなかにある
疑問が言葉となって
この世に出てくる
ところにあります。
正解のない、答えのない
疑問にどれだけ出会えるか?
小学2年生の夏休みに
わが子が挑む課題は
あとひと月ほどつづきます
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作文にはじまる
さまざまな文章。
スラっと書けたら
どんなにラクか?
宿題・課題に追われる
子どもはもちろん
些末事に追われる大人の
願いでもあります。
そのスラっと書ける
コツをひとつお伝えします。
書かなければならないもの
書きたい出来事をまるごと
受け取り、限りなく近づく
というコツです。
自身は極度の近視なので
眼鏡を取ってモノを見るときは
鼻の先まで、近づけてもしくは
近づいて行き確認します。
近視眼というと
目の前のことしか理解できない
全体を見渡す能力がない
将来を見通す習慣がない
など散々な云われようで
メゲてしまうのですが
近づいて顔やカラダを寄せ
モノをまるごと確かめるクセを
厳しい慣用句を横目に捉え
積極的に活かしています。
どのように活かすか?
見たいものにムダに近づくので
いつも危険と不安が伴います。
そんな危険を冒し
不安に苛まれながらも
くっきりはっきりと大きく
質感まで見えたときの嬉しさ。
そこをいつも文章を書くときの
きっかけとして活かしています。
話は飛んで、美術館。
展示されている絵画を
鑑賞するとき
鼻先に画面が来るまで近づき
筆が描く立体的な流れを
息を殺して文字通り見つめます。
この危険と不安は
並大抵のものではありません。
監視の方に注意どころか
追い出される「危険」。
同室にいるたくさんの鑑賞者に
白眼視されているだろう「不安」
が、つねにつきまといます。
しかし、この視線とドキドキが
作品を描いているときの
画家の明晰な視線や心の高揚と
どこか一致するように思え
何十年とやめられないでいます。
例えば、風景画家は
確かに自然が織りなす世界を
俯瞰しながら絵を描いています。
ですが、描いている絵の画面に
鼻先をつけるまで顔を近づけ
筆の表情を確かめている
はずなのです。
もちろん画面からどこまでも
遠ざかり、全容を確かめることも
また一方で、重ねています。
ですので、鑑賞するときに
遠くからは眺めるけど
うんと近づいては見ないは
絵のいちばん楽しいところ
見ていないような気がして
ならないのです。
作品から2、3歩さがった
位置よりしげしげと眺めるのが
いちばんもったいないのは
言うまでもあまりません。
文章をスラっと書く
話に戻します。
書かなければならないもの
書きたい出来事をまるごと
受け取り、限りなく近づく
そのときの危険と不安が
自分の喜びに変わる
瞬間を捉え文章にすると
いくらか、スラっと
書けるようになります。
対象を冷静に俯瞰し
理知的に捉えるだけで
文章を書こうとするのは
あくまでも理想に
とどめておきます
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