作文と育児が
同じ根っこをもつと
深く思いはじめたのは
3人の男児を
育てるようになり
旧約聖書の
イサクの燔祭で
アブラハムがつづける
言動が、理屈抜きで
感覚としてつかめるように
なってからです。
信仰告白のようですが
ユダヤ教徒でもイスラム教徒でも
キリスト教徒でもない自身が
物語の楽しみとして
フランス語の旧約を
読み始めて20年。
さまざまな解釈がある
イサクの燔祭でも
より宗教色の薄いといわれる
アブラハムにまつわる
応答可能性の解釈に
いまこの育児の環境で
はっとさせられています。
旧約聖書『創世記』22章
- Abraham est pret a offrir
Isaac en sacrifice-
第1節から19節にかけての
父アブラハムは、息子イサクの声
神の遣いの声にと、必ず応答します。
そのなかでも、理屈を超え
深く感じ入るしかない応答が
「神に捧げる子羊がないよ」
と問う息子イサクに向けた返答。
Mon fils,Dieu veillera
lui-meme a procurer l'agneau.
と、「いまそのまま」を
簡素に語り息子に応答します。
身に届く声に応答し
「いまそのまま」を
簡素に語り返答する。
短い3行ほどで
表せる行為ですが
理屈、感覚、習慣と
すべてに長じていても
とても十分に出来そうにない
応答の行為です。
翻って自身が
作文と育児の時間を
過ごすなかで
どこまで応答の行為に
近づくことができるか?
ひとり勝手に深淵な問に
向かっているところです
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